団塊世代が大学の街でいったい何が出来るだろう?

熱き思いを語り、それを行動に移す人たちが、カンカンガクガクのすえ、形にしていったことは? 

 

 

「パリのカルチェラタンのような、大人の文化がある学園の街へ」

O総長(94年就任)は、かつて交換研究員としてパリ大学に留学したとき、挨拶に訪れたパリ第1大学の事務所が、カルチェラタンの洗濯屋の二階にあることに度肝を抜かれたという。街と大学とに境界がない、人間臭溢れる、大人の文化を育むその環境に。 

大学紛争の遺物のような、30年間におよぶセクトの支配を、身体を張って学内から一掃し終えたとき、あのパリ大学と大学の街カルチェラタンへの憧れがふつふつと沸いてきた

かつてこの学校と街には、立場を越えて対等に、かつ率直にモノ言う下町的な風が吹き渡っていた。

そうだっ、赤提灯の二階でゼミをやったっていいじゃないか、これからは環境を意識的に作っていかないと、早稲田らしい人間が育たない。

志はあくまで高いが目線は低く、サバイバルにつよいタフな人間臭い学生を育てたい、いま一度早稲田らしい大学の環境を創っていこう、と。 

エクスステーションセンター事務長のMさん、社会科学部のO先生、 人間科学部H先生などなど、思いを分かち合える教育者がキラ星のごとくいた。相対する街の人たちだって負けてはいない。街の将来に夢を抱くタフで情熱的な顔ぶれが揃っている。

目指すは「大学とともに文化を発信しクリエイトする街づくり!」だ。 

O総長らによって、さっそく倒産したケーキ屋が買い取られ、跡地に女子学生会館が建設される。そのすぐ近くのビルには、教員や学生たちのためのベビールームが設営され、大学のための関係施設を街のなかに配置していった。 

いっぽう街の人たちは、街と大学を舞台にさまざまなイベントを企画し始める。

サラリーマン社会ではリストラがはじまり、そのターゲットになった団塊世代が、これからの生き方に疑問を抱き始めたころだ。

人生後半の行き方を、会社ではなく、一社会人として考えていこうと、92年に「団塊の高齢化社会勉強会」を立ち上げた。講師はO教授による「さらば会社中心主義」、教室は商店街にあるレストランAで。終了後はビールで喉を潤すっといったぐあい。

2年後には、このとき集まった40人ほど受講者たちによって「ワセダ・カルチェラタン」が結成され、彼らが活動のコアになっていく。

その年、大学のオープンカレッジに「生活の質」という講座を委託され、半年でのべ1500人の受講者が参加するという盛況ぶりだ。

 翌年には、大学とのコラボで社会人たちの文化祭「第一回早稲田の街社会人交流祭」が国際会議場を舞台に展開される。

また、より実践的な交流として、分科会やサークルが自主結成され、「田舎暮らしを楽しむ会」「自然観察同好会」「ミュージカルに端役で出る会」などなど、新しい仲間との語らいの場が築かれていった。

 



うして、キャンバス

の内外に社会人の姿が見られるようになっていくと、大学の先生のなかには「地域」をゼミのテーマにして、「環境」「リサイクル」などの実生活に密接する課題を、地域と人たちと一緒に実践していこうという機運が生まれる

学問の実践の場としての「地域」が、学生たちの意識のなかに認知されはじめ、それに応えて地域住民が知恵と力を出す「協働」の形が作られはじめたのだ。

「思い」ある人がそれを「語り合い」、「接点」を求めてこれまでにない新しい「協働」の形を実現していくプロセスは、困難はあったが、開いていかなくてはならない扉だった。

「人間同士が触れ合わない、世代間が断絶している世相のなかで、これからの若者に私たち世代が何を残していけるか、そのためのこれはチャレンジでもあったのです」

 


団塊世代が大学の街でいったい何が出来るだろう?
  1. その前に「地域猫」のはなし
  2. 「地域のネットワーク創りには、パートナーシップ精神で!」
  3. 事態を打破するために「社会人に開かれたアメリカの大学を視察して廻る」
  4. 「パリのカルチェラタンのような、大人の文化がある学園の街へ」
  5. これからNPO(非営利団体)として「より広く社会性のあるテーマへどう進化していくか?」

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